2021年11月22日月曜日

2021年10月 第12回 陰陽道史研究の会 参加記

 第12回「陰陽道史研究の会」参加レポート   木下琢啓


第12回「陰陽道史研究の会」は10月17日にオンライン会議システム「ZOOM」を使って開催された。今回は順次発刊されている『新陰陽道叢書』の第3巻に当たる近世篇をテーマとして、梅田千尋氏、奈良場 勝氏、嘉数次人氏の三氏の発表があった。

最初に梅田氏が「近世陰陽道史の現段階と展望」として、『新陰陽道叢書』近世篇 編集の趣旨解説をおこなった。『新叢書』近世篇は、これまで主に近世社会史・制度史等の中で比較検討の一素材として取り上げられてきた近世陰陽道が、陰陽道史自体の中ではどう変化を捉えるか、また近世社会の中でどのような影響を与えたかについて、『旧叢書』以降の近世陰陽道史研究の飛躍的な進展と深化が明確に解るように構成したという。

また今回、近世陰陽道および陰陽道組織が占いや暦術を学問として発信し、それに接した近世の各層知識者の中で陰陽道的学知が浸透していた事に注目した研究も取り上げ、西洋の学知が流入していく中でもなお陰陽道およびその知識が多様性・多層性をもって人々に受容されていた事を示す事が出来たのではないかと総括した。

次いで奈良場氏による「近世初期の易神信仰について」は、近世初期の日本に登場した「易神」の存在について、登場の経緯と陰陽道との関りを論じた発表であった。易経を経典の一つとした儒教は元来「怪力乱神を語らず」として神の存在を語るものではなく、また易占についても世界の生成原理として理解されるが故に占いに神が関与する事はないと考えられてきた。それが日本において、中世には道教の「太極図」から「太乙(救苦天尊)」が北辰信仰に、そして近世初期に陰陽道の神である鎮宅霊符神に結びつき、同神が易占の神すなわち「易神」と明言されるに至ったという。ただ、この易神信仰は同じく近世に起きた儒教の独立と朱子学の定着、易占書の流通によって次第に衰退していく事になるが、現在においても神道等にその影響が認められ、今なお日本独自の易の受容によって生まれた易神信仰の一端は様々な形で残っているとの事であった。

質疑応答では、易神と陰陽道特有の「暦神」との関係性についての質問や、鎮宅霊符信仰からの視点でみる易神についての質問、また現代の易の知識や作法が近世以前と異なる事への感想などがあった。

続いて嘉数氏の「寛政改暦と土御門家」は、江戸時代中期に実施された寛政改暦についての研究発表であった。寛政改暦は江戸時代に入って三度目の改暦であったが、民間研究者の登用と西洋天文学の知識が導入された点で、貞享・宝暦と過去二度あった改暦と大きく異なる。嘉数氏は、寛政改暦における政治面での動向、当時の土御門家の天文学のレベル、そして寛政期の改暦プロセスの三点を関心の所在とした。

寛政改暦はこれまで、前回の宝暦改暦で編暦権を奪われた幕府天文方が再びその権利を取り戻す為に、土御門家には改暦を秘していたと考えられてきた。しかし嘉数氏は史料調査によって、改暦の意向と諸経緯の情報の土御門家への伝達について明らかにした。また、幕府および天文方側も土御門家と各種の情報交換を頻りに図っており、相応の待遇をもって接していた事を明らかにした。この他、土御門家が所蔵していなかった典籍を幕府の文庫から貸し出す等の配慮もされており、専ら天文方と土御門家の編暦権を巡る攻防に注目が行きがちになる寛政の改暦事業は、互いの事情がありながらも歩調を合わせて行われていたとの事であった。

 質疑応答では、土御門家は天文方の主要層をどの程度認識していたかについての質問や、当時最先端の天文学知識を保有していた仙台藩の例から、東西での情報格差があったのではないかという質問、嘉数氏が使用した「編暦権」という語の適用範囲についての確認があった。

 各氏発表の後、総合討議では奈良場氏に対して易神信仰展開の経緯について追加説明を求める声や、各種の質問・確認事項、嘉数氏に対しては京都改暦所で土御門家が天文方の道具を使っての観測をしたことについて、事業完了後、天文方の観測具はどうなるのかについて、また例示された史料に関する質問などがあり、発表者だけでなく参加者からも盛んに意見や情報が交換された。最後には第4巻である民俗・説話篇にも話が及び、参加していた第4巻編者である小池淳一氏を中心に第13回のテーマについても意見交換が行われ、盛会のうちに本会は終わった。『新陰陽道叢書』も折り返しに入り、残すところ第4巻と第5巻となったが、本会はその両巻が、いずれも意欲的なものとなる事を確信させてくれる会であった。