2024年8月27日火曜日

2024年 4月  第17回陰陽道史研究の会 記録

日時:2024年4月20日(土)

午前 10:00-11:00頃 京都市下京区 梅小路巡検

午前中は、京都市下京区梅小路付近(土御門家菩提寺梅林寺と江戸時代の土御門屋敷跡)を見学しました。

宝暦改暦に観測に用いられた圭表土台や門人組織である福寿講寄進の手水鉢のほか、普段拝見出来ない本堂や土御門家代々の墓所、そしてその現状について詳しく御話頂きました。土御門家代々の御位牌が丁寧に守られている様子が印象に残りました。お土産の竹燈籠まで頂き、得がたい思い出となりました。梅林寺様には改めて御礼申し上げます。

*なお、梅林寺は通常非公開です。下記団体などでツアー企画がありますので、ご関心のある方は、これらの機会をお探し下さい。

京都先年天文学街道 http://www.tenmon.org/?page_id=38

*梅小路巡検について、吉川弘文館『本郷』173号に中島和歌子さんが「安倍晴明の子孫の屋敷跡」と題して寄稿されています。

https://www.yoshikawa-k.co.jp/pr_hongou

中島和歌子『陰陽師の平安時代―貴族たちの不安解消と招福』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー は6月に発売されました。
https://www.amazon.co.jp/dp/4642306013


午後:13:30-17:30 佛教大学紫野キャンパス 15号館

中村一輝氏「飽波神社の正月神事とその由緒」

奈良県生駒郡安堵町に鎮座する飽波神社( 旧牛頭天王社) では明治初頭まで年初に篝火や

松明を用いて除災招福を祈る「夜法会(やぼえ)」と呼ばれる神事が行われていた。この神事は蘆屋道満もしくは安倍晴明の修法がその起源とされていたことが慶長三年の年記がある『安堵社神験記』(二点存在、内一点は延宝九年以降の書写) をはじめとする神社関係の史料に記述されている。晴明説は『簠簋内伝』を下地に創出されたと考えられることが史料より読み取れ、道満説については不明な点が多いものの、町内にある蘆屋道満屋敷跡周辺の人々により語られていた可能性が考えられる。これらの説の成立時期は不明だが、近世には晴明説が衰退したと考えられ、現在は道満説のみが伝えられている。また、夜法会は修正会に関係する行事であった可能性が高いことも明らかになった。この事例の調査で多くの知見を得ることが出来たが、検討の余地がある部分もまだ多く、引き続き検討を続ける必要があると考える。(中村一輝記)


中島和歌子氏「『紫式部日記』の陰陽道概観―平安文学作品における陰陽道の諸相―」

『紫式部日記』寛弘五年(一〇〇八)九月十日条の官人陰陽師(おんようじ)達による中宮藤原彰子安産祈願の祓(はらえ)の場面では、『実方(さねかた)集』六四など同じく中臣祭文が引用されている。翌十一日戊辰には「日遊(にちゆう)在内」により産座が土御門第寝殿母屋から北廂に移されたが、理由は書かれていない。他にも、翌年元日丁巳の坎(かん)日(にち)による戴餅(いただきもち)延引を除くと、五夜(ごや)と七夜(しちや)の間の夜の月蝕、十一月一日戊午の敦成(あつひら)親王五十日(いか)当日の天皇の物忌、同期間の彰子の物忌など、漢文日記などからわかる禁忌が不記である。方違や占いなども見える『源氏物語』や『紫式部集』と比べても陰陽道の要素自体が少ない。不吉なことを書かないのは、主に慶事の記録としての役割ゆえであろう。また、十一月二十八日乙酉の賀茂臨時祭では一条天皇の物忌による祭使らの参籠で「細殿わたり」が騒がしいと批判し、還立(かえりだち)の御(み)神楽(かぐら)の短縮には頓着せず、供御薬(みくすりをぐうず)では陪(ばい)膳(ぜん)女房の装束が御生(しょう)気(げの)方(かた)の色ではないことを繰り返し称賛するなど、『枕草子』の価値観と逆のものを提示する傾向がある。 (中島和歌子 記)