第11回 陰陽道史研究の会 参加記(木下琢啓)
第11回陰陽道史研究の会は2021年4月4日に開催された。未だ猛威をふるい続けている新型コロナウイルス感染症予防のため、今回もオンライン会議システム「ZOOM」を利用しての開催であった。
今回は1月14日に刊行された『新陰陽道叢書』第2巻中世篇発刊にちなんで、その編者である赤澤春彦氏、同書に新稿を寄せられた下村周太郎氏、遠藤珠紀氏の3名が発表した。
最初に赤澤春彦氏が「『新陰陽道叢書中世巻』と中世陰陽道研究」という題で、『新陰陽道叢書』中世篇の意義および意図、中世陰陽道史研究の現状について編者の立場から概説した。
赤澤氏はまず旧『陰陽道叢書』における中世陰陽道研究の論点確認と課題をまとめ、それらがどの程度克服されてきたかを解説。『新陰陽道叢書』中世篇の持つ意義、これまでの研究成果と、研究進展で新たに浮かび上がった課題や研究テーマを紹介・共有・提言する目的を持っていることを強調した。つづいて同書収録の論文と各論の要点についてダイジェストで紹介。陰陽道史研究にとって中世は、一連の陰陽道変遷の中で共通する問題点の有無を確認する上で重要な時代であるとまとめた。
下村周太郎氏は「中世国家論と陰陽道研究」と題し、「中世国家論」において陰陽道研究が持つ意義について著名な学説との関りから考察した。
中世の宗教体制論は、主に「権門体制論」に基づく「顕密体制論」と、「東国国家論」に基づく「武家的体制仏教論」という大きく二つの学説の影響の下で展開されており、陰陽道に対する評価については、前者は「顕密体制」の一要素であったとするのに対し、後者は神祇信仰と仏教に並ぶ一つの宗教勢力であり、なおかつ神祇と仏教を接合する役割を有していたと見なされていたという。
この相克する国家論と宗教体制論のいずれが中世における陰陽道の位置付けとして妥当かという視点から下村氏は、鎌倉・室町両幕府における「天変地異祈祷」の位置づけに注目した。
鎌倉期、三代将軍実朝の時代には天変地異発生時の「内典」仏教と「外典」陰陽道の合同による祈祷=天変地異祈祷が「国家的祈祷」として確立されており、その本質は朝廷で行われる祈祷と同質であったという。そして室町幕府における天変地異祈祷も鎌倉幕府の宗教体制の継承・踏襲であり、室町幕府が国家的祈祷の主宰権を掌握し、権力的に朝廷を上回ろうとしたという見方への疑問を示した。また、「権門体制論」「顕密体制論」をふまえて、顕密仏教体制の一員として陰陽道を位置づけた。
遠藤珠紀氏は「天正10年閏月問題から見た中世末期の暦道」と題し、天正10年(1582)に織田信長が閏月の配置を巡る問題から朝廷の暦に疑念を抱いた一件を取り上げて、中世末期における暦道の実態を調査した結果について発表した。
この一件は、朝廷の暦では天正11年に閏正月が設定されている閏月について、天正10年に閏12月があるのではないかと信長が話した事を発端とする。これは濃尾地方の暦に閏12月が置かれていた事が原因であった。時の陰陽頭土御門久脩や勘解由小路在昌らは相談の結果、閏12月はないと信長に回答。信長も一旦はこれを受け入れたが、6月1日に上洛の際に再度「閏12月」の話を持ち出したという。結局この問題は翌2日に本能寺で信長が討たれた事で話は終わっているが、遠藤氏によればこの一件から当時の暦を巡る事情が見えてくるという。
中世には「地方暦」が登場した。これらの地方暦も元は「宣明暦」が基礎となっているが、次第に各地で独自のルールや調整法が確立されていった結果、朝廷の暦算との間に齟齬が生じることもあったという。知識の伝授には地方に移住・滞在するようになった官人陰陽師との関係が存在した可能性もある。信長が持ち出してきた閏月の問題は、濃尾の暦と朝廷の暦とで閏月の計算方法に齟齬があった事が原因の一つであった。また信長が再度閏月の問題を出した甲州征伐後という時期に注目し、甲斐・信濃でも濃尾地方と同じ閏12月が置かれた暦を使用していた事が、影響したとの見解を示す。
さらに、朝廷において暦道を司っていた賀茂氏勘解由小路家がこの時期断絶を見た。暦の作成と献上は実質的に土御門家が担当する事になった。朝廷で造暦を司る勘解由小路家、さらには土御門家も後継者不在と財政逼迫に直面して作業に支障をきたすこともあった。
天正10年閏月問題はしばしば「信長と天皇との問題」として捉えられがちだが、それだけに収束させる必要はなく、同時期の暦を巡る環境を物語る事件として位置づけた報告であった。
3名の発表後、総合討論と質疑応答があり、会は終了した。前会に引き続き、今会も『新陰陽道叢書』の続篇刊行にちなんだテーマで意欲的な発表が行われた。次会も精力的な発表に期待したい。